2020年8月 7日 (金)

日本テニス協会六十年史

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『日本テニス協会六十年史』は、ほぼ40年前、私が大学を卒業した翌年の1983年(昭和58年)12月12日発行です。

発行者は当時の日本テニス協会会長の小坂徳三郎さん。編纂は朝日新聞記者の片山全平さん。

「六十年史本記」として執筆されたのは当時88歳の前テニス協会事務協調久保圭之介さん。

その他にも執筆された方や、発行に関わられたのは、学生テニス連盟(学連)の役員をしていた私にとっては、雲上人でありながら実際にお会いしてお世話になった身近にいらした皆様です。

記載されている学連のメンバーは私の2年下の後輩達。懐かしい顔が思い浮かび、恥ずかしい記憶も蘇ります。

貴重な記録を読ませていただき、書きたいことが山のようにあり、とても整理がつきません。

そのうちにボチボチ書かせていただこうと思います。
小坂徳三郎さんは私がお会いして握手し色紙をいただいた、初めての国会議員でした。

同時に色紙をいただいた学連の同期の中の数人はその日に行った飲み屋に色紙を忘れて置いて帰ってしまったとか、片山さんはいつも酔っ払っていたとか…。


この史料を貸していただいたのは、ライバル高校で一級下だったKさん。お父様の形見だそうです。彼はベテランのJOPトーナメントで活躍しています。新型コロナウイルスでトーメント開催が次々中止され、公営のコートが閉鎖された頃にわざわざ持ってきてくれました。

トーナメントが再開されたら会場で会った際に返すと約束しました。

明日は半年ぶりに福岡県ベテランオープンが開催されます。やっとお返しすることができます。長い間お借りしてありがとうございました。


日本テニス協会の発足は1922年(大正11年)だそうです。間もなく100周年を迎えます。

今からちょうど100年前の1920年(大正9年)、清水善三さんが日本人として初めてウインブルドン出場を果たしました。我が母校西南学院高校(旧制中学)が初めて公式戦に出場したのも100年前のようです。
先人達が築いた日本のテニスの歴史に思いをはせることができました。


明日は久々の公式戦。初戦の相手は上位シード。勝てないとは思いますができるだけ長い時間コートで楽しみたいと思います。

 

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2020年3月31日 (火)

映画『子どもたちをよろしく』

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娘が小学1年生だったと思う。お友達ができて家に遊びに来るようになった。口数は少ないがちゃんと挨拶もできる良い子だけど、妻は何となく違和感を感じたという。夕方になっても家に帰りたがらない様子だったそうだ。
娘によると、その子は母子家庭で幼い弟がいて近所のアパートに住んでいる。部屋はとても散らかっていてゴミだらけ。トイレは壊れているからコンビニで済ませているらしい。夕食もちゃんと食べさせてもらっていないかもしれないという。
お母さんが許してくれるのなら、我が家で夕食を食べるかと聞いても曖昧な返事しか返ってこない。それでも一緒に食べると美味しそうに食べてくれた。でも、とても遠慮がちな様子だったそうだ。仲の良かった他のお友達のお母さんも同じようなことを言っていたらしい。
複雑な(この表現が適切とは思えないけど)家庭環境だったのだろう。育児放棄に近い状況だったのかもしれない。妻は、夕食を食べさせるのを躊躇ってしまった。毎日我が家で夕食を食べさせるわけにはいかないし、その子の母親にどう思われるのか不安だった。積極的に連絡をとらなかった。
その後数カ月でその子は引っ越したらしく学校に来なくなった。
いまでも心に引っかかっています。あの子をなんとかできなかったのか。夕食を一人分多く作るのは大した負担ではない。毎日となると大変かもしれないけれど、近所のお母さん方と協力すればその負担も軽くて済む。簡単なようで難しい。

映画『子どもたちをよろしく』は観ているのが辛くなる映画でした。前売り券を譲っていただいた高校テニス部の先輩から、暗い映画だと聞いていて覚悟はしていたのですが。
複雑な(やっぱり適切な表現ではないと思うけど)家庭にいる二人の中学生。虐める側と虐められる側。虐める方も何時虐められる側になるのか不安。DV、育児放棄、アルコール、ギャンブル依存。性風俗と偏見。
虐めるのがそんなに楽しいのか。どうしてそこで抵抗でしないのか。なんでそんなに卑屈になるのか。簡単に金貸してくれなんて言うなよ。借りた金でギャンブルなんてするなよ。とか、歯ぎしりする思いです。
何度席を立とうと思ったことか。
人間の弱さを見せつけられて腹がたち、居た堪れない気持ちにもなります。全く救いのない映画です。金払って、わざわざこんなとこまで来て、なんでこの映画を観ているのだろうとも。
それでもこの映画に描かれていることはまだマシな方だ。現実はもっと酷く痛ましい。とも思います。いじめをする中学生にリアリティがない。演技が下手っていうことでなく、多分良い子なのでいじめをす人間の狂気または無邪気さなんて演じられない。映像が綺麗すぎる。
そして救いのない結末。
これって観るべき映画だったのかと自問。

いじめられる側に一切の非がない。いじめる側を全否定しても解決しない。社会全体の問題として捉えないといけないと思うけれど難しい。

子ども食堂というのが広がってきているようです。良い取り組みだと思います。自分の選挙区での子ども食堂の広がりを自慢している馬鹿な政治家がいました。
貧困対策のための子ども食堂は本来ならない方がいい。理想的な子ども食堂は、金銭的な援助ではなく、近所の子が集まってみんなで楽しく食事ができる場所であること。地域の人々が、個々でできることを少しずつ出し合って全体で子育てができればいいと思う。ボランティアの大きな負担による施策が必要な世の中なんて自慢できるもんじゃない。片親や共稼ぎの家庭が子どもに食べさせるお金に事欠く社会はまちがっている。親の経済状況や仕事の内容に対する偏見が子どもに影響を及ぼしてはいけない。そんな世の中なのは政治家と行政の責任。
あの娘のお友達はどうしているのだろう。良い出会いがあって幸せになっていて欲しい。デリヘル嬢となり一家を支えるなんてことになってほしくないです。

娘は大学生になりました。小学生時代にはいじめられる側になりそうなこともあったけど、しっかり乗り越え、いじめる側への思いやりさえ持てたようです。今のところとても良い子に育っています。偏見のない子だと思います。思いやりもあります。ちょっと自信なさげなところもありますが、自分の考えをはっきり主張できます。
小学校でいろいろあったころはスクールカウンセラーになるとか、総理大臣になるとか言い出してびっくりしました。今ではフツーの女子大生生活をエンジョイしているようです。


まとまりのない話になりました。映画の話とは離れてしまったけど、こんなことを考えさせられたのだから、この映画を観て良かった思います。

コロナウイルスの影響で、映画を観に行きましょうとは言えない状況は残念です。
今の状況に対する今の政権と官僚の対応を見ると、この世の中いじめや偏見をなくすことはできそうもないと残念な気持ちになります。
子供たちにやってはいけないと教えるべき悪い見本を、すべてこの国のトップがやってしまっているようです。
嘘をついてはいけない。誹謗中傷をしない。相手の意見はしっかり聞く。ノートはちゃんととろうね。漢字の勉強をしよう。
今の日本のトップはそんな常識を木っ端微塵にしてしまっているような気がします。

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2020年3月27日 (金)

20008.三体

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『三体』 劉慈欣

この作品が凄いという話は聞いていたけれど手を出せずにいました。ところが、早川書房が電子書籍のバーゲンセールをしていたので思わず購入。コロナウイルスの影響もありテニスも思うように出来ないのでこの機会に話題作を読んでしまおうと。
数学は苦手です。中学では得意だと思っていました。答えが明確に出てくるから好きだと。ところが高校の数学で挫折しました。定義とか定理とか公式とか訳判んないじゃないですか。要は世の中の現象に一定の法則を見つける。その法則を使って先を予測したり、新しいものを作ったりするんですね。
人間はその昔、自然現象はすべて神的なものとして畏れ慄いていたようです。それが段々と法則を発見し、今ではすべての事象を理解し制御できると思うようになりました。しかし当然すべての事象を理解し説明できる訳ではありません。


この『三体』です。

「題名の「三体」とは、作中でも説明されているとおり、天体力学の〝三体問題〟に由来する。三つの天体がたがいに万有引力を及ぼし合いながらどのように運動するかという問題で、一般的には解けないことが証明されている」

劉 慈欣. 三体 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.6738-6740). Kindle 版. 訳者あとがきから

簡単に言うと、「太陽が三つあったらその動きは予想することは不可能」ってことらしいです。突然氷河期になったり、灼熱の地獄になったりするってことみたいです。地球人の常識からいうと人間は生きていけません。でも、太陽が三つある星に文明を持つ生物(人間みたいな)がいて、その星と地球が交流を持つというのがこの物語の基本設定です。
私にはこの基本設定さえも理解不能です。

凄い小説です。基本的な数学さえも、ましては天体物理なんて全く理解できない私みたいな者が一気読みしてしまうほど面白いのです。
墨子とか孔子とか、ニュートンやアインシュタインとか登場します。名前は知っているけどその思想や理論なんてよくわかんない。語られる科学的なことは一片も理解できない。それでも面白いのです。
専門的知識を持つ方には突っ込みどころ満載のようで、それはそれで楽しめるのではないかと思うのですが。とにかく堪能しました。

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2020年3月25日 (水)

20007.探偵コナン・ドイル

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『探偵コナン・ドイル』 ハーパー

私はとても身体の弱い子供でした。月に一度は扁桃腺を腫らし学校を休んでいました。テレビは居間にしかないし、見せてはもらえないので本を読むしかありません。小学校3年生の頃だったでしょうか、児童用の世界文学全集みたいなもの30冊を完読。本棚の中の未読本は大人向けのハードカバー。小さな活字で2段組。意を決して読み始めたら止められない止まらない。これが私のシャーロック・ホームズとの出会いで、ミステリファンへの入り口となったのです。その後、小学校の図書室にあるホームズとルパンを貪り読みました。
こんな感じで本好き、ミステリ好きになった人は沢山いるのではないでしょうか。多くの言語に翻訳され、児童や生徒向けのものが数多く出版され、映画やテレビドラマ化され、今だに数多くのパスティーシュが生みだされているシャーロック・ホームズです。

『探偵コナン・ドイル』は、ちょっと変化球のホームズ・パスティーシュ。主人公はホームズの作者コナン・ドイルです。ワトスン役です。シャーロック・ホームズ役はドイルの師であるベル博士。彼は実在の人物で、ホームズのモデルとなった方です。そして、女性ジャーナリストのマーガレット・ハークネス。この3人で、あの有名な「切り裂きジャック」と対決します。
ドイルがホームズ・シリーズの第1作から次作まで4年の間があります。「切り裂きジャック」事件はその間に起こっています。作品はフィクションですが、「切り裂きジャック」事件についてはほぼ史実に基づいていて、実在の人物が登場しています。
「切り裂きジャック」というと元祖「猟奇連続殺人」です。時代は130年前。指紋採取もなかった時代です。ロンドンの人たちは恐怖に慄きました。(現在では「クリミナル・マインド」でFBIのBAUが毎週猟奇殺人を解決していますけどね。)
ホームズでなくドイルに事件を解決させるというアイデアは素晴らしい。リアリティのあるストーリーに独自の推理と解決。人物の描写も良くて私好みの作品。大いに堪能させていただきました。

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2020年3月18日 (水)

20006.『白い悪魔』

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『白い悪魔』 スタンズベリー

最近益々「欲望」を感じなくなったように思う。元々「欲」が強いほうではないと自分では認識しているけれど。
鈍感になったとか、気力が萎えたとかではない。
庭に咲く花を見て可憐だと思うし、沈丁花の香りを運ぶ風を心地よく感じられる。
美味いものを食べたいとは思うけど、わざわざ遠くまで出かけたり、店の前で並んだりしてまで食べたいとは思わない。
テニスはもっと上手くなりたいと思うし、試合に勝ちたいとも思うけれど、勝つことだけを目指そうとは思わない。
街を歩く女性を、綺麗だとか可愛いとか思う。それだけで満足。
欲しいものがないわけではない。でも、それを手に入れるためにしなければならないことと、手に入れた後に得られるメリットを考えると、別に欲しくないわ、と思ってしまう。
人と争ってまで我を通す気はない。
好きでもない人と付き合う必要のない生活。
もしかしたら、これが幸せで充実した生活なのかもしれない。

『白い悪魔』は美しい女性の独白の物語。彼女の周りには死が付き纏う。
淡々と語られるその内容は相当ギトギトしています。
欲望のぶつかり合い。そこまでして金が欲しいのか。立場を守りたいのか。
モノクロか紗がかかった映像で綴られたようなサスペンス映画を見ているような気分でした。
春の陽がポカポカ暖かかったベランダで読了。

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2020年3月13日 (金)

デ杯、日本の敗戦とコロナウイルスの影響 テニスイベント軒並み中止

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2020年4月17日(金)から18日(土)に、ITC靱テニスセンター(大阪府大阪市西区)で開催が予定されていた2020年フェドカップ by BNPパリバ・プレーオフ「 日本 対 ウクライナ」は延期になりました。コロナウイルス感染拡大の影響に伴い、すべてのプレーオフおよびファイナルを延期すると本日未明に国際テニス連盟より発表がありました。代替日程は未定です。
https://www.fedcup.com/en/news/317110.aspx

本来なら、今週行われているはずの「BNPパリバ・オ―プン」(男女共催、ATP1000、WTA Pramier Mandatory、グランドスラム大会に次ぐ格付けの大会)も代替日程未定で延期されました。
その他、ITFのトーナメントも日本では、4月中旬までの大会はすべてキャンセル。中国、イタリアの大会もキャンセルされています。

先週行われたDavis Cupのプレイオフは無観客で行われました。
ボールパーソンは手袋を着用。選手用タオルは籠に入れて直接触らずに渡していました。
関係者はすべて検温。報道受付ではメディアの皆様に検温をお願いしました。
異様な雰囲気の中行われた対戦で日本はエクアドルに完敗。ファイナル出場を逸しました。

新型コロナウイルスは日本チームにとってより大きく影響したと思います。
まずは、無観客となることでホームであることの大きなアドバンテージがなくなったこと。
そして、西岡選手が出場しなかったこと。
西岡選手は、コロナウイルスの影響により、一旦帰国するとその後のアメリカツアーのために出国、またはアメリカへの入国ができない可能性があるため一時帰国してのデ杯への出場を断念しました。
出場した添田選手、内山選手、マクラクラン選手も同じ不安を持っていたと思います。特に添田選手、内山選手は全仏前のツアーの戦績次第でその後の全英、全米へと続くグランドスラムの本戦入りが微妙となるランキングです。
一方のエクアドルチームの選手のランキングはエミリオ・ゴメス選手151位、ロベルト・キロス選手は276位とグランドスラムに届かないチャレンジャーレベル。決して恵まれたテニス環境にあるとは言えない国情でのプレーオフ進出に発奮し集中できていたのだと思います。プレッシャーもなく伸び伸びプレーしていたように見えました。試合を通して常にアグレッシブにプレーしていたようです。なんでもない球をミスすることも多いけれど、肝心なところで攻めきれていました。
一方、日本の選手は攻めきれない。内山選手も添田選手もエクアドルの選手の甘い球をウイナーを狙ってミスする。丁寧に打つと甘くなって逆襲されます。
内山選手がファイナルで負けたシングルス第2試合マッチポイント。内山選手が攻めていたのに決めきれず、パスを抜かれて負けてしまったのは、そんな展開の象徴でした。

とにかく、日本チームにとっては惨敗といえる残念な敗戦でした。
そして、もっと残念なのが新型コロナウイルスの蔓延です。
一刻も早い収束を祈るばかりです。

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2020年2月24日 (月)

自分史と母校西南学院高校テニス部の歴史(4)

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1920年(大正9年)7月26日  福岡日日新聞

『九州テニス協会60年史』に九州テニス界の詳細な歩みが書かれた部分は、署名がなくどなたが書かれたかは不明です。発行に関われた方のお名前はあります。修猷館高校OBの西村さんによると、西日本新聞社に勤務されていた方に違いないということです。すでにお亡くなりになっているとのこと。ご存命であれば西南高校テニス部についてもお話お聞きできたかもしれません。残念です。

図書館で古い新聞は、マイクロ資料として収蔵されています。
最近は何でもデジタル化されて、検索ワードを入力するとモニターに資料が現れるのが当たり前のようになっていますが、古い新聞はほとんどがデジタルデータ化されていません。
35ミリのフィルムの一コマに新聞1ページが撮影されていて、映画のフィルムのようにリールに巻かれています。モニターにセットしてコマ送りし、目当ての記事を探します。
根気のいる作業ですが、当時の広告や記事の見出しが目に入ってくるので時勢に触れることができる楽しい時間でもあります。しかし、戦争が本格的になるにつれて、紙面は嫌な記事にあふれ、ページ数も少なくなります。何てバカなことをしたのだろうと悲しくもなる作業でした。
何回か図書館に通い、新聞をモニターでめくって、福日大会の記事をプリントアウトしました。

西南学院創立の翌年に福日大会は始まっています。
西南学院は4回目からの出場です。
1926年(大正15年)には、2回勝ち進んでいるにもかかわらず、安息日のために棄権しています。西南学院の日曜日問題は旧制中学のテニス部にもあったことが確認されました。
最高成績は、1928年(昭和3年)の準優勝。名門東筑に敗れています。
この時のメンバーの中に、次の年に全国大会に出場する選手もいらしたようです。
西南学院が準優勝した翌年から、福日大会は準硬式ボールを採用します。1934年(昭和7年)からは硬球を使用しますが、その前年から西南学院の参加は確認できませんでした。
以下福日大会における西南学院の戦績の概要です。

1916(大正5年)   西南学院(旧制中学)創立 

1917(大正6年)   福日大会(福岡日日新聞主催中等学校庭球大会)開催

1918(大正7年)   校舎を西新に移転

1920(大正9年)   福日大会に初出場 豊国、佐中に敗退

1921(大正10年)高等学部(現:大学)創設

           福日大会 小倉師範、佐賀師範に敗退

1922(大正11年)福日大会 伝習館に勝利、長崎師範に敗退

1923(大正12年)福日大会 門司商業に敗退

1924(大正13年)福日大会 鞍手中に勝利、鹿島二中に敗退 全国大会準硬球採用

1925(大正14年)福日大会 島原中に敗退

1926(大正15年)福日大会 門司商業、小倉商業に勝利も鹿児島第二師範戦安息日のため棄権

1927(昭和2年) 福日大会 大分師範に敗退。この年からシングルス実施。

1928(昭和3年) 福日大会 鞍手中、小倉師範に勝利。決勝戦にて東筑に敗退

1929(昭和4年) 福日大会 若松中に勝利、長崎商業に敗退 準硬式採用

         第22回全国中等学校庭球大会にてS戸川選手、D板垣/戸川組2回戦敗退

1930(昭和5年)   福日大会 佐賀商業に敗退

1931(昭和6年) 福日大会 京城師範に敗退

1932(昭和7年) 全国大会硬式ボール採用

         この年以降西南学院の福日大会参加確認できず

1934(昭和9年)   福日大会 硬球使用大会と軟球使用大会実施        

1935(昭和10年)福日大会 硬式のみ実施 

1941(昭和16年)全国大会中止

1942(昭和17年)福日主催大会最後(西日本中等学校夏季錬成六大大会)

1943(昭和18年)全国大会中止

1944(昭和19年)全国大会中止

1945(昭和20年)終戦 全国大会中止

西南高校テニス部の歴史についてのブログはここまででいったん少しお休みします。
来週はデ杯ワールドグループ プレイ・オフ日本対エクアドル戦です。

コロナウイルスの影響で無観客試合になるかもしれませんが、私はお手伝いで会場に行きます。

 

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2020年2月21日 (金)

自分史と母校西南学院高校テニス部の歴史(3)

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私は図書館司書の資格を持っています。
といっても、図書館司書は国家資格ではないので資格試験に合格したのではありません。
広告会社を早期退職する前後の頃に近畿大学通信教育部で所定の単位を取得しました。
その頃、娘は中学受験。妻は看護師(こちらは本物の国家資格)目指して看護学校に通っていました。私だけ何も勉強していないってのもなんだかな、と思いお勉強したのです。
退職後2年間ほど大阪の某大学図書館でお仕事させていただきました。
父の膨大な蔵書整理の役に立つかもと思ったのですが、父が亡くなると速攻で母がほぼすべての蔵書を古本屋に売っぱらってしまったので、役に立ちませんでした。


西南学院高校テニス部の歴史を調べるのに、このスキルは役に立ったと思います。
ネット検索や図書館のレファレンスを利用しました。
国会図書館のデジタルアーカイブで日本テニス協会の古い資料をあたったり、郷土資料として所蔵の九州大学庭球部100年史を読んだり。図書館のレファレンス担当の方にはお世話になりました。ありがとうございました。


探したのは戦前に福岡で開催されていた高校(旧制中学)のテニス大会の資料。
大会の名称と時期がわかれば過去の地元の新聞に当たることができます。
新聞は図書館にマイクロフィルムで保管されていて、閲覧可能。必要なところはプリントすることができます。なんのヒントもなく新聞の紙面を探すのは効率的ではありません。って、ほとんど不可能な作業です。

ずいぶん前の話ですが、福岡におけるテニスショップの草分け「サイトウテニスショップ」さんから、昭和11年頃の新聞の切り抜きを見せていただいたことがありました。テニス関連の記事をスクラップしたものです。
ある日開店の為に店にいくと、店の前に置いてあったそうです。
その切り抜きを見ると、その頃のテニスがメジャーな競技だったことがわかります。
ちょうどチルデンが来日してエキシビジョンマッチを全国で開催した年です。
来日したプロテニス選手が、大学生を指導したことがアマチュア規定違反ではないかと大問題になったようです。大学生のアマチュア規定について学生テニス連盟(学連)理事長の見解が紙面の半分程度を使って掲載されていました。学連の理事長は現役の学生です。新聞は今で言う一般紙。朝日か毎日だったと思います。現在では考えられない扱いです。
それほど、学生テニスはメジャーな競技でした。テニスだけでなく学生野球も。同じ年にプロ野球が始まったようですが、巨人と阪神の試合結果はほんの数行掲載されているだけでした。
福岡で高校のテニス大会が開催されていたならば、その詳細な内容が新聞に掲載されているという確信がありました。


九州テニス協会で資料をあたることにしました。考えてみれば、最初にここに行くべきでした。
古い資料はほとんどないと聞いていたので後回しになってしまったのです。
九州テニス協会の理事長合瀬さん、事務局長の中野さんは西南学院高校テニス部のOBです。その他多くのOBの方が様々な形で九州、福岡のテニス界を支えてくださっています。


1985年(昭和60年)に『九州テニス協会60年史』が発行されています。
18ページから22ページに記述された「福日大会」文中に、
「昭和三年、春日原コートで行われた軟球最後の大会には、六十三校、四百余名の選手が参加し、三日間の熱戦ののち、東筑中学が西南学院を破って優勝した。」
と書かれています。
これにより、戦前に福岡において開催されていた旧制中学のテニス大会の存在と、その大会に西南学院が出場していたことが明らかになりました。


大会名と開催時期が判明したので、図書館で福日(福岡日日新聞・現在の西日本新聞)のマイクロフィルムを借り出し記事を探します。1928年(昭和3年)の西南学院準優勝の記事を確認し、遡って毎年の記事を見ていき、初出場が1920年(大正9年)であったことを突き止めました。
今からちょうど100年前です。

思った通り、主催が新聞社自身であることもあり詳細な記録が掲載されていました。ほぼすべての対戦の選手名とスコア、試合経過が記載されています。
次回はこの「福日大会」について書きたいと思います。

 

文中にある「サイトウテニスショップ」さんは、福岡のテニスプレーヤーにはおなじみのテニスショップです。オーナーの斎藤さんは九州テニス界のレジェンドの一人です。残念ながら若くしてお亡くなりになりました。現在は奥様と娘さんが店を引き継いでいます。
我が家族は、父と兄弟3人ともガットを斎藤さんに張っていただいていました。お世話になりました。
西南学院高校OBの合瀬さんとのダブルスは素晴らしい名コンビだったと記憶しています。



『九州テニス協会60年史』、「ジュニア育成の歩み」の中の写真。「第3回こどもテニス教室(昭和44年8月・九電コート)」に写っているこどもの一人が、たぶん私のような気がします。初めてテニスをしたときです。いや、懐かしい。こんな発見もあるので資料探しは楽しかったです。


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2020年2月20日 (木)

自分史と母校西南学院高校テニス部の歴史(2)

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大先輩の訃報に接し悲しい思いをしています。
村田隆さん。享年90歳。修猷館高校から西南学院大学。数々のタイトルをお持ちの九州の名プレヤーであり指導者でした。
私にテニスを初めて教えていただいたのが村田さんだったのではないかと思います。
訳のわからん小学生に根気強く球出ししていただきました。
まだまだお元気だと伺っていたので、そのうちご挨拶に伺おうと思っていたのですが…。
お聞きしたいことたくさんあったのに、お話聞けずに残念です。
ご冥福をお祈りいたします。

私がブログで西南高校テニス部について書こうと思ったのは、素晴らしい先輩方、テニスだけではなく社会人としても活躍されている方のことを後輩たちに知ってほしいと思ったからです。
だから、後輩、おまえらもしっかりせんか、と説教するつもりはありません。誇りを持てと強制するつもりもありません。しかし、西南学院テニス部で過ごしたことは、本人の心がけ次第ですがその後の人生に大きな良い影響を及ぼすことは確かだと思います。
前回のブログを読んでいただいた方からコメントをいただきました。共感していただける方がいることがわかり嬉しいです。ありがとうございます。

母校テニス部は盆と正月にOB会が開催されます。組織としてのOB会もしっかりしていて、毎年時期になると事務局からお知らせが送られてきます。戦後、今から70年ほど前からの名簿が整理されているそうです。
昨年のOB会で、テニス部創設の時期について話題になりました。戦前の資料が学校にも残っていないとのことでした。

テニスのインターハイ(高校総体のテニス)は、1908年(明治41年)に関西諸学校連合庭球大会として大阪の浜寺公園で始まりました。
2013年、浜寺公園北テニスコート前に全国高校テニス選手権大会発祥地記念碑が建立されました。以前ブログに書きました。
http://akikanajiro.cocolog-nifty.com/blog/2019/12/index.html


同じ時期に『高校テニス100年史(全国高等学校体育連盟テニス部)』が発行されています。
高校総体テニス100年の記録がほぼすべて掲載されています。
小ちゃな自慢ですが私の名前もあります。
大学の先輩、大恩人が経営するテニスショップで見せていただいたことがありました。
そのことを思い出し国会図書館検索で調べたところ、地元堺市の図書館に所蔵されていました。

ちなみに、この資料を所蔵する図書館は、県立図書館が3館ほどで全国の市立図書館では堺市図書館だけでした。やはり、インターハイ発祥の地ということでの所蔵なのでしょう。ラッキーでした。
100年以上前の記録から遡り西南学院を探します。
老眼の私には辛い作業ですが、とても楽しかったです。
戦前にテニスのために全国から大阪に高校生(旧制中学)が集うのです。新幹線も飛行機も無い時代に。蒸気機関車で長い時間かけて行ったのでしょうね。ワクワクしながら。不安もあったかもしれない。そんなこと想像しながら。

そんな思いで記録を辿ること22年。1929年(昭和4年)8月1日~4日に大阪浜寺公園テニスコートで開催された「第22回全国中等学校庭球大会」のシングルス2回戦敗退者に戸川さん、ダブルス2回戦敗退者に板垣さんと戸川さんのお名前を見つけました。
90年前に西南学院テニス部があったことが確認されたのです。
戦前に出場された先輩が確認できたたのはこのお二人だけです。記録は完全なものでは無いのでもしかしたらまだ他にいらっしゃったかもしれません。
この後、西南学院の選手が全国大会に出場するのは戦後、学制がが変わってすぐの1949年になります。
インターハイの記録についてはまた今後書いていきたいと思っています。

西南学院高校テニス部に90年の歴史があることはほぼ確実になりましたが、学校の創立は1916年。100年以上の歴史があります。この間の14年。いつからテニス部が活動していたのか?
調べてみることにしました。

次回は、「福岡日日新聞(現在の西日本新聞)主催中等学校庭球大会」の資料を発見した経緯を書きたいと思います。

1929年(昭和4年)は、私がテニスをするきっかけを作ってくれた父の生まれた年です。数年前に亡くなりましたが、生きていれば90歳だったんですね。
戦前に活躍された先輩方がご存命なら皆さん100歳を超えています。お話をお聞きできないのは残念ですが、記録を辿り皆さんのテニスに対する情熱に思いを馳せたいと思います。

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2020年2月18日 (火)

自分史と母校西南学院高校テニス部の歴史(1)

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私が初めてテニスをしたのは50年ほど前。1930年に正式発足した名門「福岡テニス倶楽部」の子供教室でした。中学卒業までお世話になりました。
高校は創立100年を越すこれまた名門校「西南学院」に進学しました。といっても、私自身は名門ではありません。「福岡テニス倶楽部」「西南学院高校テニス部」では、指導していただいた方には迷惑をかけてばかりの問題児でした。テニスも下手なくせに生意気なガキだったと思います。
特に高校時代は謹慎をくらうこと2回。チームメイトや後輩に大きな迷惑をかけました。それでも、クビにならずインターハイに出場させていただき無事卒業。しかもそのおかげで大学に進学できたというとんでもない輩です。
とにかく良い高校でした。テニス部も良い先輩ばかり。いろいろあったにもかかわらず、とても楽しい3年間でした。ここまで私が曲がりなりにもマトモに生きてこられたのは、この高校テニス部での3年間があったおかげだと思っています。いや、大袈裟でなく本気でそう思います。

私は世間知らずでした。感受性も低くて、世の中における自分の立ち位置が全くわかっていませんでした。自分で自分のことがよくわかっていなかったくらいだから、周りの人には何を考えているのわからない得体の知れない奴だと思われていたに違いありません。我が道を行く生意気な奴と思われていたかもしれません。デリカシーのない言動で嫌な思いをさせてしまったこともあったでしょう。
社会人になり世の中のことが少し解ってくると、テニスでお世話になった皆様方の素晴らしさに気がつくようになりました。
テニスのおかげで、しかも名門テニス部、テニス倶楽部出身ということで、多くの方と知り合い、受け入れていただきました。
私自身が信用されたのではなく指導していただいた方、先輩や後輩が築いてきたことに対する信用のおかげです。
そんな皆さん、友人達とお付き合いをしていきたいという思いが、私がちゃんと仕事し堕落しないことへのモチベーションになっていました。

いつしか、テニスに恩返しをしたいと思うようになりました。といっても、大それたことが出来る技倆が私にはありません。結局、テニスを続けることがお世話になった方への恩返しだと思うに至りました。
還暦を迎え故郷で過ごす
ことが多くなった今、真面目にテニスを楽しみ、出来るだけ多くの人にテニスの素晴らしさを伝えていきたいと思いを新たにしています。
でも、まあ、ボチボチと。力みすぎるとロクなことないんですよ、私。

昨年から生活の多くを福岡で過ごすことになり、時間もあったので母校テニス部の歴史を調べることにしました。

調べた資料を高校の大先輩で現在テニスの練習でお世話になっている大野さんにお見せしたところ、是非なんらかの形で発表するべきだとの助言をいただきましたので、母校の歴史と調べた過程を書くことにしました。

ちょうど100年前、1920年(大正9年)に福岡で行われた「福岡日日新聞(現在の西日本新聞)主催中等学校庭球大会」に出場したのが最も古いテニス部の記録です。
西南学院高校は1916年創立です。テニス部の歴史は少なくとも100年もしくはそれ以上ということになります。

ここに西南学院高校テニス部歴史の概要を記します。
尚、ここの記述は私が個人的に調べたもので、出来るだけ正確な記述を心がけたつもりですが、間違いや足らない点があると思います。すべて私個人の責任によるものです。

 

1916年(大正5年)西南学院高校(旧制中学)創立。

1917年(大正6年)「福岡日日新聞(現在の西日本新聞)主催中等学校庭球大会」始まる。

1920年(大正9年)から1931年(昭和6年)まで西南学院はこの大会に出場。

1926年(大正15年)2勝したにもかかわらず、安息日のため棄権。

1928年(昭和3年)決勝進出。東筑に敗れ準優勝。

1929年(昭和4年)現在に続くインターハイの第22回大会とされる「全国中等学校(旧制)庭球選手権大会」に西南学院の選手がシングルスとダブルスに出場。

1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)の3年間、全国大会は戦争のため中止。終戦の翌年1946年(昭和21年)より再び開催され現在に至る。

1948年(昭和23年)新学制施行により西南学院高等学校となる。全国大会は同年より「全国高等学校庭球選手権大会」と改称。

1949年(昭和24年)戦後初めて西南学院の選手が全国大会のシングルスとダブルスに出場。全国大会の個人戦にはこの後、1954年(昭和29年)~1958年(昭和33年)、1961年(昭和36年)~1963年(昭和38年)、1981年(昭和56年)、1984年(昭和59年)、1985(昭和60年)、1988(昭和63年)に西南学院の選手が出場。

1958年(昭和33年)、全国大会団体戦に初出場し2回戦(ベスト8)進出。

1976年(昭和51年)、全国大会団体戦に2回目の出場を果たし3回戦(ベスト16)に進出。

1979年(昭和54年)から開催されている「全国高校選抜テニス大会」団体戦には、これまでに1979、1983、1984、1986、1987、2001年度の6回出場。

インターハイ個人戦の最高成績は、1985年(昭和60年)ダブルス準優勝の錦戸さんと徳永さん。

シングルでは1958年(昭和33年)合瀬さんのベスト8、1988年(昭和63年)古屋さんのベスト16です。

1994年(平成6年)西南学院高校は男女共学に移行しました。

最近では男子が福岡県中部地区において団体戦ベスト4以上、県大会ではベスト8以上、女子は地区ベスト8に入り県大会に出場しています。

 

参考資料

 西南学院HP

 西南学院高校テニス部HP

 九州テニス協会60年史

 福岡日日新聞(現西日本新聞)

 高校テニス100年史(全国高等学校体育連盟テニス部)


 

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